2026-07-05

【告知】めちゃくちゃな政治に抗議0710スタンディング

 スタンディング・デモします。


 日時 2026年7月10日(金)17:30 ~ 18:00

 場所 家庭裁判所浜田支部 前(浜田市役所の向い)


サイレントです。

プラカード持って立ちます。


物価高、災害、石油不足、、、暮らしの苦しさを後回しにして、

政府は猛スピードで何を…?


民主主義を壊されたくない。

平和の国であり続けたい。

2026-05-06

【ご報告とお礼】スタンディング・デモ

5月6日、益田駅前で14:30~15:00のスタンディング・デモは無事に行うことができました。

ぼっちでもがんばろう!と気合い入れて駅前に立ってすぐ、一緒に立って下さるかたが現れました。他県にいるご家族がデモカレンダーをご覧になり、それで知って来て下さいました。

車から降りてきて「これから他県へ帰るので一緒に立てませんが、がんばって下さい」と差し入れを下さったかたもありました。

それからもうお一人来て下さいました。おしゃれでかっこいいプラカードをお持ちでした。

通り過ぎる方々はこちらを見ないかたがほとんどでしたが、ちらっと見るかたもありました。

三人でいろいろなことをお話しているうちに時間となりました。

解散しようとしているとき、少し前に通り過ぎたかたがまた通られ、話しかけてこられました。駅のバリアフリーの足りなさについて嘆かれました。社会の中の生きにくさについて思うことを、わたしたちとなら共有できるのではないかと思って話しかけて下さったのかもしれません。

わたし自身はそのお話にうなずくことしかできませんでしたが、一緒に立って下さってたかたは、問題点を明確にしながら力強い助言をなさっていて、凄いなあ~とリスペクトしかありませんでした。


一緒に立って下さったかた、差し入れを下さったかた、話しかけて下さったかた、プラカードを見て下さったかた、ありがとうございました。


自分と同じように日本国憲法を大切に思う人がいるというのは心強いものでした。

プラカードを掲げて立っている間、憲法に支えられているような気持ちでした。


関わって下さった皆様、ありがとうございました。


2026-04-29

【告知】スタンディング・デモ

 

改憲反対のサイレント・スタンディングをします。


日時:2026年5月6日(水) 14:30~15:00

場所:益田駅前


プラカードもって立ちます。

ぼっちスタンディングなので、淋しくなったら小声で憲法を読み上げるかもしれません。


失いたくない 選挙制度

失いたくない 民主主義

失いたくない 人権


 ・・・ 日本が世界から信用されるのは、戦争しない国だから ・・・


2018-03-02

落照の獄 / 小野不由美

『丕緒の鳥』所収の短編。

     ・ ・ ・ ・ ・

社会のなかで、とりわけ法治国家のなかで、
死刑の本質は何か。
死刑はどんな意味をもつか。


この問いへの答えを追求することで、この短編はできている。
ファンタジー小説《十二国記》シリーズの一作品だが、ファンタジー世界を描く側面は弱い。どちらかといえば哲学的な思考実験小説と呼びたいくらいだ。

主人公は司刑だ。そういう役職の人物だ。司法という役職の下で容疑者の刑を決定する役目らしい。

この話の軸となる人物がいる。殺人犯だ。たくさんの人を特に意味もなく殺してきた凶悪犯、言動からは罪の意識も良心もまったく見えないらしい。
副主人公は国民だ。 「この凶悪犯を死刑(作中では「殺刑」という語が用いられている)にしろ」 と圧倒的な声量で司法に要求する人々だ。主人公の妻が、この国民を代表する役割をになって「アイツを死刑にしろ」と主張し続けている。
さらにラスボスがいる。姿は見せない。かつては大ボスだったが、今はこの国に不吉な混乱をもたらし司刑たちを悩ませる元凶だ。国王だ。

このかつての大ボスが「死刑禁止」と決めていたのだった。
だのに、凶悪犯が登場した今、国王は「死刑でも終身刑でもどっちでもいい、もうどうでもいい、司法に任せた」と投げ出したので、司刑と同僚たちが悩んでいるのだ。

二人の同僚は、死刑賛成と死刑反対の立場でディベートを繰り返す。
司刑はそれを聞き、時には自らも議論に加わり、最終的な判断を下さねばならない。

この三人の議論と、主人公の悩む心情とが、この短編を構成している。

この作品の凄さは、議論が遅々として進まないことだ。
答えに向かって一直線に滑降したりしない。
ぐるぐると堂々巡りしているように見える、が、堂々巡りではない。ぐるぐる螺旋を描きながら一歩ずつというより半歩ずつ、慎重に、足が地から離れないように確かめながら、答えに向かって進む。それがどんな答えかはわからないまま。


社会が投げかけてくる問いには、そういう慎重さで答えに向かうべきではないか、と思えてくる。

ある時点で「これが正しい」と思えた答えだって後になってみれば「あの時、国は間違えたんだ」とわかることなんて歴史上ではしょっちゅうだ。
だから「これが正しい」と声高に主張ばかりして説得する議論を尽くさない人を見ると、それが行政や立法を運営する立場の人であればあるほど、危うく見える。

考えてみればこのシリーズは、「一足飛びに答えを求めるな」精神で貫かれている。
『図南の翼』のなかでははっきりと「(答えにたどりつく努力をせず)答えだけを訊くこと」は却下されていた。
遅々として進まない議論をメインに構成した作者の勇気。
冒険物語を期待する読者層からの批判は予想されたと思うが、よく書いてくれて世の中へ投げ込んでくれたなあとおもう。

先に答えを決めてしまってそれに向かって滑降するなよ。
議論を尽くそう。



そしてこの作品のファンタジーとしての側面を見れば、他の作品でちらちらと仄めかされてきた十二国世界の根幹に関わりそうな謎が、ここでもやはり顔を出している。
柳で何が起きているのか、劉王に何が起きたのか。
この一点において、この短編は『黄昏の岸暁の天』と地下茎でつながっているようだ。

……戴の反乱者たちの不可解さは、劉王の不可解さと同根ではないのか?

そんな疑問がわく。
十二国世界の奥にある謎は何なのだろう。いつ、明かされるのだろう。
楽しみな・・・



2017-06-17

『おんな城主 直虎』は同時代性を持っているという話

大河ドラマは伝統芸能ではない。
公共放送が《毎年》大予算使い大宣伝して《新作を》出すドラマ枠。ということは、何を描いているのであれ「今」を映し出す作品だ。
同時代性を持つべきものだ。過去の表現をなぞり受け継ぐ種類のものではない。
その意味で、今年の大河ドラマは非常に大河ドラマだなと感じる。



第21回。
主人公が静かに言う「われもそなたも、人は皆、等しく卑しい」

生きることは簡単じゃない。生き延びるために人は他者から奪う。あるいは他者を引きずり落とす。卑しくなる。
これ、昔も今も変わらない真理だ。
だが奪い合わねば生きていけない状況のままで良いのか、と主人公は問いかける。
世を変えたい、と。
それに対して盗賊は「世!?」と呆れ顔で驚く。それはそうだ、人間一人の意欲で世の中を変えられはしないものな。
だが主人公は「やってみねばわからない」と高らかに言う。

諦める空気の強い、今の日本。
その閉塞感を吹き払う風が画面から吹いてくるようだ。



第22回。
まさに今、世界がぶち当たっている問題。
異質な考え方や文化を持つ集団どうしが出会う。ぶつかる。相手を嫌う。拒絶する。排除しようとする。
受容と排他。寛容と非寛容。

「相手を見ようとしないから怖れが生まれ、誤解が生まれる」そうだな、そこから憎しみまではほんの一歩だ。
「互いに近づいて相手をちゃんと見れば誤解は解けるのに」

集団でなくても、個人のレベルでも。
対話してなかなか話がかみ合わず、「あの人、めんどくさい。話ができない」と判定した相手へは、もう関わろうとしなくなる。
めんどくささを避け、その相手とは距離を取り、自分の平穏を保とうとする。

それで良いのか? と問いかけられる気がする。
相手を知ろうとし関わろうとする姿勢を手放してしまったら、社会は成り立たなくなるよ? と。



第23回。
ドラマとしては濡れ衣を晴らす話(活劇風味)だが、テーマは「濡れ衣を晴らそう」というものではないようだ。
テーマの一つは「上司の仕事は部下を信じることと責任を取ることです」かな。
もう一つは、こちらのほうがより重みをもって描かれていた、「職業の選択」。

安定した、しかし心に封じて我慢しなければならない事の多い生活か。
自由な、しかし経済的にも身分・立場的にも不安定な生活か。

社会のなかで生きる人間にとって心揺れる二択。
大半の人は前者を選び、だから社会は安定する。
だが後者を選ぶ人がいてこそ、社会は活性化し、多様性が保たれ、強靭になる。安定した社会は衰退へ向かうしかないから。
後者を選んだ登場人物の開放感、彼が今後ドラマにもたらすだろうダイナミズム。想像するとわくわくする。



深い。深いよ『おんな城主 直虎』。観る者の持ってる文脈や感性で、どのようにも読み取ることができる。
自分は同時代性を読み取った。べつの人はべつの見方をするんだろう。

さて来週はどうなるのか。

2017-05-03

スウィングしなけりゃ意味がない / 佐藤亜紀

最終盤にさしかかった時、「エディ」と主人公の名を呼ぶ小声が聞こえる。

その場面を映像で観たい、と思った。

おそらく呟きにちかい声だ。力のない声だ。
だが、雑然とし様々な物音や人声が入り混じるなかで、主人公の耳をつかまえ振り向かせるほどのふしぎな力をもった声だ。

その声を聞いてみたい。
その声を発した人物は、どんな気持ちでその名を呼んだのだろうな。あの状況で。
その声を通して心を聞いてみたい。


音が、ずっとこの小説世界を支配している。たんなる音じゃない、スウィングする音、グルーヴする音、ビート音、
ピアノがかき鳴らされる音、精巧とはいえないラジオから出てくる音、蓄音機から出てくる音、
警報音、砲弾が建物を破壊する音、爆風に屋根が共振する音、

音に酔いそうな気さえする。

ナチス政権下のハンブルクで、ジャズを抱えて生きていたようなそれともジャズを道連れに生きのびあるいは死んでいったようなスウィングボーイズ。
ナチスの愚かさを笑い、ナチスの愚劣さに痛めつけられ、抗わず従わず。ただ音楽のもたらす自由にのみ仕える彼ら。

金銭と嘘と欲望にまみれているスウィングボーイズ。
透明感に満ちている。澄んでいる。彼らの音楽だけは嘘じゃないからだ、生命そのものだからだ。

 

2017-04-06

『おんな城主 直虎』はすごいという話

恐るべきドラマだ。

実験的な作品の多い時間帯に放送される、低視聴率上等なドラマならともかく。
好きな人だけが料金払って移動時間使ってわざわざ観に行く映画ならともかく。
日曜日の夜8時、あのザ・夕食後のお茶の間で家族団欒しましょう枠で、こんなドラマやるのか…!

……攻めてるなNHK。

どこがどう恐るべきなのか。
今週4/2の第13話で、例にあげるのにちょうどよいシーンがあったので例にあげてみる。


ムロツヨシさん演じる瀬戸方久という豪商の初登場場面。
しかしこの人、豪商としては初登場だが、じつは初登場ではない。第2話で、凄まじくボロボロの、いざというとき命を差し出すために村で養われている存在(解死人)として登場していた。
「その方久がどうやって豪商に成り上がっていったか」を面白おかしく説明するアニメーションが挿入された。
方久はまず湖で魚を安く買い、それを売ってボロ茶屋を買い、茶を売り、次に戦場で食物や薬を売り、そこで拾った刀剣鎧を次の戦場で売り、ついには蔵が建つほど儲けた、と。

この説明アニメを見て「ほほ~、わらしべ長者か」と思った人がいます。ハイ、ここにいます。

しかし放送後のSNSでは、
「酒保商人(戦場の商人)は攫った人間を売買する。それが最大の商品。大河ドラマではさすがにそこまで言及できないか」
という意味のコメントがあった。

このコメントをした人には、方久が人身売買などで儲けてきた暗黒面を持つ人物、ということが見えている。
一方、わらしべ長者だと思った人(ハイ!)は、方久の言動から胡散臭さや酷薄さを感じはするものの、コミカルな雰囲気のほうをはっきり感じる。

SNS上のまたべつのコメントでは、このアニメの登場人物が方久以外は、鳥獣戯画のような獣に描かれている点に注目している意見が。
方久にとって他人は人面獣心である、と。それは方久が解死人で、人間扱いされてこなかったからだ、と。


このドラマは観る側の知識・経験・感受性・境遇などによって、見えてくるものが違うのだ。

解死人について知っているか知らないか。酒保商人について知っているか知らないか。
それによって方久の暗い部分が、大きく見えたりほとんど見えなかったりする。
ただ、見えなくても支障ないようにできているのが、このドラマのすごいところ。
方久の暗い部分はいずれドラマのなかで何かを引き起こす要因になるはずだ。
見えていれば「ああ、やっぱり」となるし、見えてなければ「こんな奴だったのかー」驚きの展開となってドラマを楽しめる(きっと)

日本史の知識を持っているかいないか。その中でも戦国時代の生活に関する知識を持っているか。

非言語コミュニケーションで相手の感情を読み取る技量を持っているかいないか。

高橋一生さん演じる小野政次は、考えていることを言葉にも表情にも出さないが、瞼の開け具合(閉じ具合)や頬の筋肉のかすかな動きで心の動きを見せている。
しかしドラマ内では、他の登場人物たちにはその心の動きは読み取れていない。だから視聴者も読み取れなくてもかまわない。いずれドラマのなかで彼の心の謎が明かされるはずだ。
だが今読み取れたなら、より切なさが増して物語に深みを感じられる(きっと)


受け手の状況によって、話の内容がまるで違って受け取られるもの。
それは《寓話》だ。

表層に現れた話だけを受け取るも良し。
深読みするも良し。
知識や感受性を駆使して自分的真相にたどり着くも良し。
深いところまで見てる人のコメントをSNS等で読んでなるほど~と唸るも良し。

表層に現れた話だけでも充分面白い。
戦国時代の新米領主が時代の大波に翻弄されながら懸命に泳ぎぬく物語。
教科書で言葉は習ったが具体的なイメージとしてはさっぱりわからなかった【検地】【徳政令】などがまさに目の前で、主人公の死活問題としてくり広げられる。

ミルフィーユのように何層にも重なった物語の、どの階層に行くかは、自由だ。
どの階層に行っても楽しめる。ひとつ深く降りるごとにまた楽しめる。
寓話的大河ドラマ。

2016-12-30

横置きで作成した原稿を、縦に2部並べて縦置きA4用紙1枚に印刷する方法(word2016)

このタイトルでは意味がわかりづらいが…つまりこういうことだ。

A4用紙を横置きし、縦書きした原稿がある。

これを縦に2部並べてA4用紙に印刷したい。こんなふうに。

 

その方法をいつも忘れる。「確か、こうするんだっけな」と思いながら印刷すると全然違うレイアウトになってしまう。
しかたなく検索するが、なかなかこの状況と同じ問題を解決してるアンサーに出くわさない。
世の中の原稿の大半は、縦置き&横書きらしい。

で、忘れないために、また、忘れてもここ見れば思い出せるように、やり方をここに記す。



1. まず印刷画面で「プリンターのプロパティ」をクリックする。
  すると表示される画面はプリンタによってまちまちだが、
  「ページ設定」タブをクリック → 「割り付け」を選択 → 「OK」

2. 印刷画面に戻るので、
  設定の項目で「ユーザー指定の範囲」を選択 →
  ページに「1,1」と入力する。ここ大事!

3. あとは印刷するだけ。おわり。

2016-09-19

「はみだしっ子」シリーズ / 三原順

10代のうちに出会っておくべきだと思う作品がある。

「アルジャーノンに花束を」とか。アルジャーノンを知ったのは20代になってからだった。そのプロットを知ったとき、
(これは高校生頃の、ぐんぐん栄養を吸収して育っていく心であるうちに、読むべきだった…!)
と地団駄踏みたいほど悔しかった。
感動はするだろう。何かを学ぶだろう。
(でも10代だった自分が受け取ったはずの、物事の見かた受け取りかたを大きく深く揺すぶるほどの影響は、もう受けられない)
と思ったのは、自分の生きかた、進みたい方向がもう定まりつつあることを感じていたから。

だからアルジャーノンはプロットを知ってから、長いこと読まなかった。
悔しさが薄れるまで読まなかった。


出会うべきときに出会えた幸運、それが『はみだしっ子』シリーズだ。
14歳で出会った。
14歳には歯応えがあり過ぎたと思う。でも魅入られた。
難解な比喩、抽象的な語句、つぎつぎ繰り出される言葉による概念の洪水。象徴的な絵、背景や表情や小道具。
何度も何度も、くりかえし読んだ。

大学生になって知り合った人と雑談の中で、お互いマンガ好きだとわかった。
「好きなマンガ、どんなの?」
「ええと……はみだしっ子っていうのがあって」
「あ、自分も読んでた」
この瞬間にかわした無言の会話。

《そうか、おぬしも読んだのか》
《おぬしもあの怒涛に身をゆだねたのか》
《奔流を泳ぎ切ったか》
《同志よ》

こんな会話を幾度かしてきた。新たな知り合いがはみだしっ子好きとわかるたびに。

世の中の人々は、二種類に分けることができる。
「はみだしっ子」を読んだ人と、「はみだしっ子」を読んでいない人と。




2016-08-07

幸せな日々でありますように!

これソチオリンピックの時に書いた(そして消した)。
リオ見て思い出した。のでタイトル変えて再掲。


     ・ ・ ・ ・ ・


今、冬季オリンピックの真っ最中だ。
TVニュースはオリンピックに占拠されてる感がある。大雪が降って関東の状況が心配だった時も、雪で孤立してる地域については二の次で、オリンピックでの日本選手の様子がトップで、大半の時間を割かれていた。
いいのかジャーナリズム。

まあそれは置くとして。

オリンピックにのぞむ日本の選手の密着番組やインタビューを見て、気になることがある。

「支えて下さる人達のためにも、メダルを取りたい」
「応援して下さる人達のためにも、頑張りたい」

と言う選手がものすごく多いことだ。というより選手みんなこの言葉を口にしてるんじゃないかな。

選手のこの気持ちは、尊いと思う。
支えや応援に対して感謝する心は、人として素晴らしい。
もし自分が選手に関わりのある人間だったら、そして選手のためにささやかでも貢献している人間だったら、選手からそう言ってもらえることは本当に嬉しいだろうと思う。

でも、ちょっと待って。  と思う。

アスリートというのは本質的に、勝負する存在だ。
「勝ちたい」という気持ちを何より強く持つ存在だ。
「試合に勝ちたい」であれ「弱い自分に勝ちたい」であれ、勝ちたい気持ちが強いから、何度でも試合に出る。
そして「勝ちたい」気持ちの強い選手が勝つ(もちろん実力があっての上で)。
ところが、ここに「支えて下さる人達のために」という一言が入ってくると、「勝ちたい」が「勝たねば」に変わってくる。

自分が勝ちたいから、勝ちたい。
皆が応援してくれるから、勝たねば。

自分自身の経験から言えば、また自分が関わった人々を見てきた経験から言えば、「勝ちたい」思いが強い時は勝てる。「勝たねば」の思いが強くなると、負ける。
そして当人には、自分が勝ちたいと思ってるのか、勝たねばと思ってるのか、区別がついてないことが案外多い。

誰かのために戦う、というのは美しいことに見える。それを否定はしない。
でも、誰のためよりもまず、自分がその競技を好きだから、世界最高の舞台でその競技できることが幸せだから、そこで自分が勝ちたいから、頑張るんだ。ということを忘れないでいてほしい。
周りの人達の思いを背負い込むことはない。

選手は、最後の勝負の場では、自分が戦い、その結果に責任を持つのだから。
責任を持つのは選手自身であって、周りの人ではないのだから。
ましてやTVの前でかってに応援している者ではないから。


なのに周りの私達は選手に
「支えて下さる人達のためにも、メダルを取りたい」
「応援して下さる人達のためにも、頑張りたい」
と言わせてしまっている。

選手がそう思ってくれるのは嬉しいけど、それを口に出してくれなくてもかまわないのにな。


     ・ ・ ・ ・ ・


未来になって、選手がこのオリンピックを思い出したとき、
「最高のパフォーマンスできたな」と自分自身を誇りに思ってくれたらいいな。試合結果がどうであれ、自分に打ち勝った誇りを。
弱い自分に勝ち、最高のパフォーマンスができた喜び、幸せ、の感覚と共に思い出されたらいいな。