「アルジャーノンに花束を」とか。アルジャーノンを知ったのは20代になってからだった。そのプロットを知ったとき、
(これは高校生頃の、ぐんぐん栄養を吸収して育っていく心であるうちに、読むべきだった…!)
と地団駄踏みたいほど悔しかった。
感動はするだろう。何かを学ぶだろう。
(でも10代だった自分が受け取ったはずの、物事の見かた受け取りかたを大きく深く揺すぶるほどの影響は、もう受けられない)
と思ったのは、自分の生きかた、進みたい方向がもう定まりつつあることを感じていたから。
だからアルジャーノンはプロットを知ってから、長いこと読まなかった。
悔しさが薄れるまで読まなかった。
出会うべきときに出会えた幸運、それが『はみだしっ子』シリーズだ。
14歳で出会った。
14歳には歯応えがあり過ぎたと思う。でも魅入られた。
難解な比喩、抽象的な語句、つぎつぎ繰り出される言葉による概念の洪水。象徴的な絵、背景や表情や小道具。
何度も何度も、くりかえし読んだ。
大学生になって知り合った人と雑談の中で、お互いマンガ好きだとわかった。
「好きなマンガ、どんなの?」
「ええと……はみだしっ子っていうのがあって」
「あ、自分も読んでた」
この瞬間にかわした無言の会話。
《そうか、おぬしも読んだのか》
《おぬしもあの怒涛に身をゆだねたのか》
《奔流を泳ぎ切ったか》
《同志よ》
こんな会話を幾度かしてきた。新たな知り合いがはみだしっ子好きとわかるたびに。
世の中の人々は、二種類に分けることができる。
「はみだしっ子」を読んだ人と、「はみだしっ子」を読んでいない人と。